2024年2月7日水曜日

競馬以外の名馬列伝:オリンピック金メダル西竹一(バロン西)とウラヌス号など

■2017/01/09 競馬以外の名馬列伝
■2014/8/19 オリンピック金メダル西竹一(バロン西)とウラヌス号
■2013/4/6 漢の武帝の汗血宝馬 馬1頭のために戦争が起こるほどの名馬
■2013/4/7 コマンチ 南北戦争でカスター将軍の部隊唯一の生き残りは馬1頭


■2017/01/09 競馬以外の名馬列伝
 競走馬以外の名馬に関する話をまとめました。

■2014/8/19 オリンピック金メダル西竹一(バロン西)とウラヌス号

 最近ではなく、はるか昔、戦前の話です。

-----引用 ここから-----
西 竹一(にし たけいち、1902年(明治35年)7月12日 - 1945年(昭和20年)3月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人、華族(男爵)。最終階級は陸軍大佐。通り名はバロン西(バロン・ニシ、Baron Nishi)。

1932年 ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。帝国陸軍の騎兵将校として騎兵畑を歩んでいたが、のちには機甲兵に転科し戦車第26連隊の連隊長として第二次世界大戦に従軍、硫黄島の戦いで戦死した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%AB%B9%E4%B8%80
-----引用 ここまで-----

 この方は競走馬風に言うと、良血ですね。

-----引用 ここから-----
父・徳二郎は外務大臣や枢密顧問官などを歴任し、駐清公使時代には義和団の乱処理に当たった人物であった。また、義和団の乱の処理の際、西太后から信頼を厚くされシナ茶の専売権を与えられ巨万の富を手にしたといわれている。

1912年(明治45年)には徳二郎が死去し、その跡を継ぎ当主として男爵となる。後見人は西伊佐次。妻となる武子の祖父は川村純義海軍大将、父は伯爵・川村鉄太郎であり、武子の長姉・艶子は阪本釤之助の子で第二次大戦中の駐スイス公使時に終戦工作に奔走した阪本瑞男に嫁いだ。子に長男の泰徳に、長女と次女の三子。
-----引用 ここまで-----

 馬の話は以下。

-----引用 ここから-----
西は華族として乗馬を嗜んでおり、自身もそれを好んでいたことから兵科は帝国陸軍の花形である騎兵を選んだ。陸士予科では隊附生徒(士官候補生)として世田谷騎兵第1連隊に配属(卒業成績:19番中13番)。(略)

1930年(昭和5年)3月、軍務として欧米出張中の西はイタリアにてのちの愛馬ウラヌス(ウラヌス号)に出会う。ウラヌスは軍から予算が下りず、当時の価格で2,000円とかなりの高額ながら自費購入であった[注釈 2]。西はウラヌスと共にヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残す。

[注釈 2]^ 世界大会での使用に耐え得る一流の馬術競技馬は、少なくとも現代においては億円単位の高い価値を持つ存在である。
-----引用 ここまで-----

 競馬は今でも富裕層との関係が深いですけど、当時の「馬術競技馬」というのもまさしく金持ちじゃないとやっていられない競技だったんですね。
 このウラヌス購入の2年後である1932年(昭和7年)には、ロサンゼルスオリンピックに出場。ウラヌスを駆って馬術大障害飛越競技に優勝、金メダリストとなります。「これは2012年(平成24年)現在においても日本がオリンピック馬術競技でメダルを獲得した唯一の記録」だとされていました。

-----引用 ここから-----
最後の障害でウラヌス自身が自ら後足を横に捻ってクリアしたこともあり、インタビューでは「We won.」(「我々(自分とウラヌス)は勝った」)と応じ、世界の人々を感動させた。西はバロン西(Baron=男爵)と呼ばれ欧米、とりわけ上流階級の名士が集まる社交界で、また当時人種差別感情が元でアメリカで排斥されていた在米日本人・日系人の人気を集め、のちにロサンゼルス市の名誉市民にもなっている。なお現地で行われた金メダル受賞パーティーにはダグラス・フェアバンクスも参加するほどの盛大なものであったという。(略)

西は1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックにも参加しているが、ウラヌスと臨んだ障害飛越競技では競技中落馬し棄権している。オリンピックの数ヵ月後の同年11月には日独防共協定が締結されていることから、この意外な落馬には主催国ドイツの選手に金メダルを譲るために西が計った便宜ではなかったかという憶測が当時から流れていた。同大会では帝室御賞典などに優勝した元競走馬のアスコットと共に総合馬術競技にも出場し、12位となっている。
-----引用 ここまで-----

 馬術競技の話はここまで。西 竹一さんはその後、1944年6月20日に硫黄島への動員が下令。満州から日本内地経由で硫黄島へ向かうが、その行路(父島沖)においてアメリカ海軍ガトー級潜水艦「コビア」の雷撃を受け、28両の戦車ともども輸送船「日秀丸」は沈没します。
 ただし、連隊内の戦死者は2名のみで西 竹一さんも無事。8月、戦車補充のため一旦東京に戻り、東京川崎財閥の御曹司で親友であった川崎大次郎の車を借用して駆け回っていたそうです。
 このとき、馬事公苑で余生を過していたウラヌスに会いに行き、ウラヌスは西の足音を聞いて狂喜して、馬が最大の愛情を示す態度である、首を摺り寄せ、愛咬をしてきたといわれています。
 ただ、結局、この後、再び戦地に赴いて死亡してしまいました。

-----引用 ここから-----
1945年、(略)3月17日に音信を絶ち、3月21日払暁、兵団司令部への移動のため敵中突破中に掃射を受けその場で戦死したか、もしくはその後に銀明水及び双子岩付近にて副官と共に拳銃自決したとも、あるいは3月22日、火炎放射器で片目をやられながらも、数人の部下らと共に最期の突撃を行い戦死したともいう。(略)

なおその西の後を追うかの如く、戦死の一週間後の3月末、陸軍獣医学校に居たウラヌスも死亡している。西が死ぬまで離さなかったウラヌスの鬣(たてがみ)が、1990年(平成2年)にアメリカにおいて発見され、現在では軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められている。
-----引用 ここまで-----

 以降はウラヌスのWikipediaから。

-----引用 ここから-----
ウラヌス号(192?年 - 1945年3月28日)は、1932年のロサンゼルスオリンピック馬術大障害飛越競技の金メダリストである西竹一日本陸軍大佐の愛馬。フランス生まれ。品種はアングロノルマン、血統は不明。栃栗毛。

1930年4月、西がイタリアで購入。元の持ち主はウラヌスを乗りこなせず売りたがっていたことを今村安が聞きつけ西に伝えたところ、それなら自分が乗ってみようと6,000リラを私費で支払った。特徴は額にある星と、体高(肩までの高さ)が181cmもある大きな馬体。性格はかなり激しかったらしく西以外は誰も乗りこなせなかったという。西とともにヨーロッパの多くの大会で入賞し、ロサンゼルスオリンピックでは金メダルを獲得した。ほか、4年後のベルリンオリンピックなどにも参加した。ロサンゼルスオリンピックでは、160cmの障害を飛び越える際にみずから馬体をよじりミスを防いだ逸話が残っている。

引退後は馬事公苑にて余生を送っていたが、硫黄島の戦いで西が戦死すると、後を追うように病死した。遺体は馬事公苑のどこかに埋葬されたという説と、陸軍獣医学校に埋められたのち空襲により失われたとする2つの説がある。戦後、西が硫黄島で最期を遂げるまで身につけていたウラヌスのたてがみがアメリカで発見され、現在は本別町歴史民俗資料館に収められている。
-----引用 ここまで-----

 西竹一さんは人気がある一方で、"日本の土着的風習が理解できず、良くも悪くも男爵家育ちの自然児"という人だったといいます。「土着的風習」という表現は他で見ない表現ですが、「土着」というのは「土着昔からその土地で生活していること」を意味しますので、昔からの日本の風習・伝統文化的なところが嫌いだったという意味かもしれません。
 一方で、ウラヌスも"誰も乗りこなせなかった”馬だといいますので、なにか通じるものがあり、「馬が合った」のかもしれません。


■2013/4/6 漢の武帝の汗血宝馬 馬1頭のために戦争が起こるほどの名馬
 以下は花を解説したページですけど、由来に絡んで馬の話も出ていました。

-----引用 ここから-----
汗血宝馬

史記に記載されているところによると、大宛馬はもともと天馬の子孫で、高速で疾走した後肩がだんだん盛り上がり、さらに鮮血のような赤い汗をかいたので“汗血宝馬”と呼ばれた。

http://nooyan.fc2web.com/hansyuebaoma.htm
-----引用 ここまで-----

 汗血馬は複数の名馬がこう呼ばれており、三国志で有名な赤兎馬もこの馬じゃないかと言われています。これについては後述します。

-----引用 ここから-----
言い伝えによると西漢の頃、張騫 が使者として西域へ赴いた後頻繁に使いのものが西域へ行くようになり、そこで強健な大宛馬を見かけた。そこで漢武帝に報告すると駿馬に目のない武帝は大喜びし、特別に金の馬を鋳造させ使者をもって大宛国に贈らせ、この金の馬と一頭の汗血宝馬を交換させようとした。
-----引用 ここまで-----

 ところは、交渉は決裂。激怒した武帝は西域の大宛国に将軍を派遣し、攻め入ります。

-----引用 ここから-----
大宛国の人々は抵抗することもかなわず国王を殺したうえで漢軍と和議に応じ、漢朝廷に良馬を献上することに同意した。漢軍は3000頭の良馬を連れ帰った。しかし長い道程のため多くの馬を失い玉門関に着いたときには1000頭を残すのみになっていた。汗血宝馬を手に入れた漢武帝は大いに喜び、”天馬“の美名を汗血宝馬に与えた。
-----引用 ここまで-----

 Wikipediaでは以下です。

-----引用 ここから-----
汗血馬(かんけつば)は、中国の歴史上で名馬といわれた馬の種類。「血のような汗を流して走る馬」という意味で「汗血馬」と呼ばれる。

前漢の武帝時代に、西域への大旅行をした張騫の報告により、大宛(フェルガナ)にこの名馬が産することを知り、外交交渉でこれを手に入れようとしたが、決裂したので遠征軍を送り、これを得た。武帝は汗血馬を得た喜びのあまり「西極天馬の歌」を作らせて「天馬」と汗血馬のことを褒め称えた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%97%E8%A1%80%E9%A6%AC
-----引用 ここまで-----

 赤兎馬については以下。

-----引用 ここから-----
小説『三国志演義』に登場する名馬・赤兎馬はこの汗血馬をイメージしたのではないかと思われる。
-----引用 ここまで-----

 また、汗血馬の諸説。

-----引用 ここから-----
汗血馬という名前に関して言うと、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号である可汗から「王の血統の馬」とする解釈が妥当であるが、実際に血を流していた、或いはそういう風に見えたという説も多い。馬の毛色によっては汗を流した時に血のように見えることがあるようだ。また寄生虫に寄生されている馬は実際に血の汗を流すことがある。この寄生虫による馬の能力低下はあまり無い。

寄生虫の寄生(皮膚表面での吸血)による滲んだ血液が「血を流す」ように見え、かつその寄生虫による皮膚の刺激(痛み・痒み)によって、あたかも狂ったかのように(通常の馬としての巡行走行速度や走行距離以上に)疾走したというのが汗血馬のいわれでは、という説もある。

面白い所では競走用に訓練された河馬ではないかという説もある。河馬は陸上では時速40km以上で走る能力を持ち、水中生活を主とする彼らの皮膚は乾燥や紫外線に弱く、それらから保護するために、俗に「血の汗」や「ピンクの汗」などと呼ばれる赤みを帯びた粘液を体表から分泌する。
-----引用 ここまで-----

 カバさんって早いし、獰猛らしいですけど、カバ説まであってびっくりです。

■2013/4/7 コマンチ 南北戦争でカスター将軍の部隊唯一の生き残りは馬1頭
-----引用 ここから-----
カスター将軍

南北戦争の際、北軍の勝利の糸口をひらいたカスター(ロバート・ショウ)は、終戦の時には名誉少将になっていた。彼のよき理解者シェリダン将軍は、戦後の平和な社会に生きられないカスターを西部に派遣しインディアン討伐の任務を与えた。
(略)カスターはインディアン攻撃のプランを立てたが、一方、インディアンも全種族をあげて大規模な反乱を起こし、騎兵隊に最後の決戦を挑んできた。騎兵隊は1867年6月26日総攻撃の手はずを整えた。
しかし1日前の25日、何千というインディアンが、シャイアン族の酋長“なまくらナイフ"に率いられ突撃してきた。受けるはカスターの率いる二百数十名の本隊のみ。多勢に無勢であった。後方で待機していたハウェル中尉の一隊も、本隊救援に向かい、ベンティーンの率いる一隊も急行したが、撃退された。
インディアンの猛攻に、さしもの本隊も全滅し、残っているのはカスターのみ。これは作戦で、インディアンは最後までカスターを残し、なぶり殺しにしようというのであった。死体の山からインディアンが引きあげたとき、生き残っていたのは、カスター将軍の白い愛馬コマンチだけであった。

http://movie.goo.ne.jp/movies/p1831/story.html
-----引用 ここまで-----

 リトルビッグホーンの戦いというようです。
 実際にはコマンチは部下のマイルズ・キョー大尉の愛馬とも。

 気になるのはインディアンの部族名でもコマンチがあること。

-----引用 ここから-----
コマンチェ族(コマンチ族とも言う、Comanche)は、歴史的にコマンチェリアと呼ばれる範囲に住んでいたインディアン部族である。(略)

コマンチェの名前の由来には様々な説明がある。恐らく最も多くの人の間で受け入れられているのは、ユテ(w:Ute tribe)語で「人々」を意味する"Kohmahts"のスペイン語訛り、"Komantcia"に由来するという説である。"Kohmahts"は、「敵」「戦いを望む人々」「敵対する人々」または「よそ者」など、いろいろな言葉に翻訳される。もう一つの説として、スペイン語で「幅広い道」を意味する"camino ancho"から来ているとする説もある。初期のフランス人とアメリカ人の探検家は、コマンチェを「Padouca(またはPaducah)」として知っ ており、これはスー語での彼らの呼び名である。(略)

もともとはショショニ族であり、18世紀に彼らと別れた一団が、南部大平原に移動し、コマンチとなった。18世紀末、メキシコ経由でスペイン人が馬を持ち込んだとき、いち早くその重要性に気づいたのはコマンチだった。好戦的な略奪部族である彼らは馬を得て、典型的なホース・インディアンとなった。(略)
馬を得た彼らは南部大平原にいたアパッチ族を南西部に追いやり、他部族のほとんどを追い払って南部を制圧した。また、カイオワ族などと同盟を組んで、スペイン人の北上を阻止した。
20世紀になると、陸軍はコマンチの特別部隊を用意し、その戦闘能力を利用した。

コマンチは平原部族の中で、最も馬盗みと馬の扱いに長けた部族と言われた。画家ジョージ・カトリンは当時、「世界中の民族でも、コマンチほどの馬の乗り手はいない。足で立ったコマンチは捉まる枝のない猿みたいに様にならないが、一度馬に手をかければきりりとし、別人になってしまう」と評している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7
-----引用 ここまで-----

 ここからとった名前なんですかね?

 なお、これと関係するのかしないのかわかりませんが、コマンチと名のつく馬は多いようです。