2024年6月21日金曜日

アルママ・ナイママの名前の由来は仏教って本当?

■2020/01/04 アルママ・ナイママの名前の由来は仏教って本当?
■2023/03/10 禅僧が書いた『ないがままで生きる』という書籍があった!

■2020/01/04 アルママ・ナイママの名前の由来は仏教って本当?

 アルママ・ナイママって変な名前だなと思っていたら、由来がOur Pleasure 2018年10月号 馬恋慕(河村清明)に載っていました。
 岡田繁幸さんによると、「お釈迦様の言葉が由来」だとして、以下のように説明していたそうです。

「お釈迦様の教えを弟子たちが経典にまとめようとした時に『そんなことはしなくていい。すべてはあるがままに受け入れるしかない』と言われたそうなんです。馬名を決める頃、自分は体調を崩していて、あるがまま、ないがままを素直に受け入れなければ体が保たんぞって思ったんです。そういう生き方に近づかなければダメだって、自分を戒いましめる意味合いを込めて、アルママ、ナイママって名前を選びました」

 「あるがまま」ならわかったんですけど、「アルママ」ってやっぱちょっと妙な感じ。さらに、ナイママの場合は、上記のエピソードにある話「そのまま」ではなく、ここから派生してつけた名前のようでした。

  ところで、このインタビューの時点では、岡田さんはアルママに期待していた感じで、デビュー前の扱いもそうでしたね。G1ヴィクトリアマイルの勝ち馬ホエールキャプチャの子ということで、ビッグレッドでは珍しい良血。父も普通にオルフェーヴルという良い種牡馬。こりゃ1億円以上だろう…と思ったら、 1億8,360万円 (2016年 セレクトセール)でした。ただ、現時点では1勝で鳴かず飛ばずとなっています。
 一方、このときはおまけ程度の扱いだったナイママは結構頑張っています。地方所属時代にコスモス賞1着、札幌2歳Sを2着。この時点では期待できそうな感じでした。ただ、その後、札幌開催が終わり、五十嵐冬樹騎手から柴田大知騎手に乗り代わってからはいまいち。中央入りしても復活していません。アルママよりは活躍しているんですけどね。
 あっ、値段を見るのを忘れていました。648万円 (2017年 北海道サマーセール)とやすかったにも関わらず、すでに獲得賞金4000万円の活躍です。近親に活躍馬はおらず、父もダノンバラードという地味馬。良血よりこっちの馬の方が岡田繁幸さんらしくて好きですね。

■2023/03/10 禅僧が書いた『ないがままで生きる』という書籍があった!

 「ナイママ」の方は元の仏教の話から派生した感じとしていたら、普通にお坊さんも言っているのか、ズバリ『ないがままで生きる』というお坊さんが書いた書籍があることを知りました。書籍の発売は2016/1/7。ナイママのデビューの2018年より2年くらい前ですね。

ないがままで生きる』(玄侑 宗久)



<この本では、「無分別」「無常」「無我」「無心」という仏教の智慧、また「無為自然」に象徴される老荘思想、そして「無限」では、秩序や必然が、いかに人間の自由に関わるのかを考察してみた。いずれも人間そのものの、最も平和な在り方についての話である。日本で成熟した仏教や禅、老荘の考え方に、今だから触れてほしい>

<玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)
昭和31年(1956)、福島県三春町生まれ。慶應義塾大学文学部中国文学科卒業後、さまざまな仕事を経験。その後、京都天龍寺専門道場に掛搭。現在、臨済宗妙心寺派福聚寺住職。僧職のかたわら執筆活動を行ない、平成13年『中陰の花』で芥川賞を受賞。また、平成26年には東日本大震災を被災者の視点で描いた『光の山』(新潮社)で芸術選奨文部科学大臣賞受賞>
 
 レビューを見ると、<禅僧であり小説家でもある著書が、「あるがまま」の先を行く「ないがまま」を提唱し、それをエッセイとして展開して行きます>といった話がありました。
 「ないがまま」は老子の思想を思わせるところも個人的にはあったのですが、上記の書籍紹介で出ているように、この書籍内でもそういった話はあるようで、同じレビューアーが以下のように書いている部分があります。

<老荘思想に見る、「あくまで受け身、それも強靭なまでの受け身の姿勢」や、仏教の観音思想にある、「状況の変化に応じて自らを無限に変化させ、それを楽しもうという態度」といった辺りに、対処力に特化した極意を感じました>

 別のレビューアーは「あるがまま、には無理があるから」という興味をそそらせるタイトルで、以下のように書いていました。よく用いられる「あるがまま」という言葉よりも、あまり聞かない違和感を覚える「ないがまま」の方が無理がないのかもしれません。

<玄侑氏は「あるがまま」という言葉に戸惑うという。人間にはいろいろな面があり、「自分」の幅も広い。仏教は人間を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道) の幅で、「どの状態になってもその人」と見る。
 状況によって人は悪魔にも天使にも変わるのに「あるがままでいいんだよ」と言われても、どのあたりの自分でいいのか。
 最近は子どものときから「個性を伸ばす」などと言われるけれども、「私という個性はこう」と自分を統一することには無理がある。
 そもそも、自分の考えも喜怒哀楽も、青空にポッカリ浮かんだ雲のようなもので、「ない」のがもともとの状態。
 そう考えて、「ないがまま」という言葉を造ったという>

 したがって、「自分がどういう人間か」という「個性」の「あり方」を探すのは無理があるということに。一方で、確定した個性がなくとも、「私は誰でもない」というのも事実。この予測できない自分の「ないがまま」を楽しみ、無心に生きようというメッセージだと受け取ったそうです。