■2015/10/22 セクレタリアトとハイセイコーは、誕生年月が同じ日米のスターホース
■2024/04/30 初代国民的アイドルホース・ハイセイコーのデビューは地方だった!
■2015/10/22 セクレタリアトとハイセイコーは、誕生年月が同じ日米のスターホース
サラブレッドインフォーメーションシステムによると、"米国のブラッドホース誌が1999年に刊行した「20世紀のアメリカ名馬百選」でセクレタリアトは2位に選ばれた"そうです。
「1位はマンノウォーで3 位にサイテーション。時代と人によって、この順位は入れ替わるが、この3頭が20世紀のトップ3であることに間違いはない」としていましたが、サイテーションは全然聞いたことなかったです。
"セクレタリアトの別名は「神の造りし馬」"。これは"身体的にほぼ完璧で欠点がなく、筋肉をフルに使い、離陸する飛行機のように滑らかに走った"ためのようです。
しかし、セクレタリアトは、実際には完璧ではなく、むしろ「奇形」であったことが死後に判明しました。
<死亡後の解剖でセクレタリアトの心臓の大きさが並の馬の倍以上もあったことが明らかになった。一般的な馬なら奇形だが、これがセクレタリアトの大きな武器だった>
(Our Pleasure 2014年1月号 ザ・ブラッド 血統表を紐解く! セクレタリアト T.I.Sより)
また、私が気に入ったのは、おちゃめなエピソードの方です。"目立ちたがり屋で取材陣がレンズを向けると、俺が主役だと言わんばかりに胸を張る"とあった他、以下のような話がありました。
<いたずら好きで(黒人厩務員の)エディー・スウィートと馬具を引っ張り合い、ブラシを銜えて隠れてエディーに叱られるとしょげ返り、負けた時は馬房に籠もって何かを考えていたと言う。そして、次のレースでは必ず新記録を作った>
記事では、他に以下のような話もありました。うちでタイトルにした話です。
<ハイセイコーとセクレタリアト。70 年代の日米を代表する国民的なアイドルホースはほぼ同時期(前者は1970 年3月6日、後者は3月30日)に生まれている>
当時の日本の馬はみな父系が続いていないんですよね。ハイセイコーもカツラノハイセイコ(東京優駿、天皇賞(春)優勝)といった活躍馬を出すものの、現在には繋がっていません。
では、セクレタリアトはどうだったか?と言うと、こちらもまたほとんど途絶えてしまいました。競馬ではありがちなことではありますが、残念ですね。
■2024/04/30 初代国民的アイドルホース・ハイセイコーのデビューは地方だった!
ハイセイコーの方も紹介を…と思ってWikipediaを読み始めたところ、以前、別のところで紹介したな!と思い出したので、そちらをそのまま転載しておきます。
1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となったハイセイコーのWikipediaを読んでいました。
<1972年(昭和47年)7月、大井競馬場でデビュー。同年11月にかけて重賞の青雲賞優勝を含む6連勝を達成。翌1973年(昭和48年)1月に中央競馬へ移籍し、「地方競馬の怪物」として大きな話題を集めた[1]。
移籍後も連勝を続け、4月に中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞を勝つとその人気は競馬の枠を超え[2][3]、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになり[4]、競馬に興味のない人々にまで人気が浸透していった[5]。
5月27日に東京優駿(日本ダービー)で敗れたことで不敗神話は崩壊したが人気は衰えることはなく[6][7][8]、むしろ高まり[9][10][11][12]、第一次競馬ブームと呼ばれる競馬ブームの立役者となった[13]。
このブームは、後年1990年前後に起こった武豊とオグリキャップの活躍を中心にした第二次ブームと並んで、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされている[14]。ハイセイコーが巻き起こしたブームは日本の競馬がギャンブルからレジャーに転じ[15][16]、健全な娯楽として認知されるきっかけのひとつになったと評価されている[17]。1984年、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が評価され、顕彰馬に選出された[18][19]。
競走馬引退後に種牡馬となった後も人気は衰えず[12][20][21]、種牡馬として繋養された明和牧場には観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになり[22]、それまで馬産地を訪れることが少なかった競馬ファンと馬産地を結び付けた>
ハイセイコーは人気すぎて途中から過剰人気に。とはいえ、競走成績が良くなかったということではありません。皐月賞の他、宝塚記念、高松宮杯に勝利。中山記念、NHK杯(当時はややグレード落ち) 、スプリングS 、弥生賞も勝っています。
で、ここに追記したことでわかるように、ハイセイコーにはリーダー馬・ボス馬的なエピソードもあったのです。おもしろいですね。
<1970年(昭和45年)、北海道日高支庁新冠町の武田牧場に生まれる。馬体が大きく脚や蹄が逞しかったことから、牧場関係者は赤飯を炊いて誕生を祝った[25]。武田牧場場長の武田隆雄によると、生まれた時から馬体が大きく一際目立った馬で、他の馬と集団で走る際は常に先頭を切った[26]>
なお、地方でデビューしたハイセイコーですが、上記だけ読んでも期待されてなかったわけではなく、むしろ期待された馬だったことがわかります。以下のように他にも期待されたエピソードがある他、地方デビューは母馬絡みの特殊事情だった感じです。
<武田は当歳時から中央競馬にいっても十分通用するレベルの馬だと感じ[28]、夏になると、「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と周囲に喧伝するようになった[29][30]。また1957年の天皇賞(春)を優勝したキタノオー以来の「武田牧場の傑作」として期待を集めて新冠町の評判を呼び[31]、2歳時には「新冠の一番馬」という評判を得るようになった[28]。
ハイセイコーは中央競馬の調教師からも中央でのデビューの誘いを受けたが[31]、母ハイユウの馬主であった青野保が代表を務める(株)王優に所有され[3][31]、ハイユウを管理していた大井競馬場の調教師の伊藤正美によって管理されることになった[30]。1971年(昭和46年)9月に伊藤厩舎に入厩し、馴致が行われた後、調教が開始された。騎手として調教と馴致に携わった高橋三郎によると、ハイセイコーはこの時点ですでに、他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備えていた[32]。また、この時期にはすでにマスコミが盛んにハイセイコーについて取材をし、中央競馬の調教師から移籍が持ちかけられるようになっていたといわれている[32]>
<1973年1月12日、ハイセイコーはホースマンクラブに5000万円([注 5]この金額は、当時の東京優駿の優勝賞金(3600万円)を上回っていた)で売却された[42]。武田牧場場長の武田隆雄は、(株)王優がはじめからハイセイコーを中央競馬へ移籍させる意向であったようだと述べており[26]、江面弘也によると武田牧場側は売却に際し、大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けていた[3][40]。作家の赤木駿介によると、ホースマンクラブが新たな馬主となったのは、同クラブの代表者である玉島忠雄が大井競馬を訪れた際、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけであった[43]。大川慶次郎によると、当時の日本競馬界では「中央は中央、地方は地方」という風潮が強く、地方から中央への移籍は4歳の秋以降に行われるのが一般的で、4歳になったばかりの時点で行われるのは珍しいことであった[44]>