■2013/3/1 上下関係作る馬の群れにはボスがいる!トレッキングでもリーダー馬
■2013/3/1 ボス馬・リーダー馬は競馬で強い?シンボリルドルフやゼンノロブロイ
■2022/05/11 第一次競馬ブームの立役者ハイセイコーもリーダー馬だった?
■2013/3/1 上下関係作る馬の群れにはボスがいる!トレッキングでもリーダー馬
リンク切れしているのですが、「インストラクターのひとりごと」というページの「#128 リーダー馬の存在」(2009/02/07 フロッグマン)では、トレッキングにおけるリーダー馬の存在の必要性について説明されていました。
まず、野生動物であるシマウマの例が登場。リーダーが常に周囲を警戒し、肉食動物の気配をいち早く察し、危険を仲間に知らせるといったことがあるとのこと。そして、馬の場合は以下のような感じになっているそうです。
<馬の群れにもリーダーとなる存在がいます。馬と関わった事のある人なら分かると思いますが、馬もはっきりとした上下関係の社会を持っています。よく観察すればどの馬がリーダー馬でどの馬が弱いか分かると思います。お互いじゃれあったり、喧嘩したり、まるで子供のように遊びます。そうして遊んでいる内に互いの強さを知り、リーダーとなる馬が決まっていきます。(略)
私達はボス馬の存在を利用してトレッキングを行います。普段から強いリーダー馬に先導役のスタッフが乗ることで他の馬は決してボス馬を追い越そうとしないし、リーダー馬も他の馬を追い越させないように蹴ったり威嚇したりします。(略)快適なトレッキングのためにはリーダー馬の存在が必要不可欠なのです>
http://www.jtng.com/thrc/p30/~199/p30-128.html
また、別のサイト乗馬特訓記の<「馬語」について:基本はボス馬の立場になってボス馬の合図をまねる>では、る馬のボディランゲージのことが詳しく書いてある一冊の大型本 「馬と踊ろう~クラウス・フェルディナンドの触れ合い 調教法」(クラウス・フェルディナンド・ヘンプフリンク著:「Dancing with Horses」の日本語版)に以下のような話があったことが書かれていました。
<基本的な考え方は、馬は順位制の群れ社会の生き物でどんな相手に対しても 自分より順位が上か下かを見てくることと、自分より順位の高い相手には頼ろうとし てきたり言うことをよく聞こうとする性質があることを利用して、まず人のほうが馬 より絶対的に順位が上、人が馬のリーダー、という主従関係をはっきりつけて馬 が人間に頼ってくるようにさせて馬と信頼関係を築き、それからボス馬が他の馬 たちに対して次々と合図(指示)を出していくのをまねするように人が馬に合図 を出していくことで、馬が群れのボスの言うことをよく聞くように馬を自由自在 に動かしていくということです。
この、ボス馬が他の馬に対して出す合図や、馬同士が使っている合図が「馬の ボディランゲージ、馬語」と呼ばれているものです>
http://www.geocities.co.jp/Outdoors/6952/time_2004_12xx.html
■2013/3/1 ボス馬・リーダー馬は競馬で強い?シンボリルドルフやゼンノロブロイ
ここまでは馬全般に関する話だったのですけど、このような考え方を競馬に当てはめて、馬券の当て方に応用しようとしている方もいらっしゃるようです。ズバリ「ボス馬を探せ!」というページがありました。「ボス馬」がそのまま「一番強い馬」で、勝てる馬がわかるという理論です。
<また、ボス馬を探す以外に、馬同士のコンプレックスを理解できるようになると、そのレースで走らない馬を見つけることができます。
(略)もちろん馬券を買う上で能力(略)は大きな要因なのですが、それに負けないくらいこの馬の持つコンプレックス、つまり精神面が大きな要因となるのです>
http://keibahissyo.web.fc2.com/category1/entry5.html
別サイトの<November 22, 2005 穴馬発見☆別館>でも、2005年のジャパンカップをボス馬で競馬予想。「競馬は、突き詰めると、ボス馬が勝つゲームだ」としていました。「そういうことを言い出したのは、僕が知ってる限りでは「中島理論」の創始者中島御大なんですが、そのエッセンスをものすごく簡単に要約しますと」として、以下のような説明をしていました。
1.サラブレッドは、自然界の生き物である。彼らが究極的に従うのは自然界の掟(つまり「本能」)であって、調教ではどうにも超えられない壁が絶対にある。
2.基本的に、次世代へと自分の遺伝子を残していけるのは、群れの中でも体力・知力ともに優れた「ボス」だけである。(なぜなら、体力・知力に劣った馬の遺伝子ばかりが次世代へと伝えられていくと、それは種の絶滅につながるからです。これは種の保存という観点から、実に理にかなったことです。)
3.競馬というのは、馬のそうした自然の本能をうまく利用したゲームである。
4.優秀な馬が揃った頂点の争い(つまりG1)で勝利を収めるのは、ボス馬である。
http://blog.livedoor.jp/blandford/archives/50209101.html
この年のジャパンカップの場合、藤沢調教師の発言がヒントに。藤沢厩舎は独特の「一列縦隊」の調教とウォーキングを行うものの、このときには必ずゼンノロブロイが一番先頭。藤沢調教師は、「(ゼンノロブロイを真ん中にすると)すごく暴れますね。ロブロイは自分が『ボスだ』って分かってますから」という趣旨の説明をしていたそうです。これを踏まえて以下のような解説がされていました。
<ゼンノロブロイは、昨年秋の天皇賞以来、牡馬に先着されたことはたったの2回しかないんですよね。
1回がイギリスでエレクトロキューショニスト。もう1回が、今年の宝塚記念のハーツクライ。
どちらのレースも、「出し抜けを食わされた」という形で、びっしりと競り合ってのものではありません。
これはまさにボス馬にふさわしいレースぶりで、今回も当然、よほどのことがない限り、ボス馬らしいレースをしてくれるはずだと思います>
この方は「ボス馬と言えば、シンボリルドルフ」とも指摘。暴れん坊で有名だったひとつ年下のダービー馬シリウスシンボリが、ルドルフの前に出るとビビリまくってしゅんとしていた、絶対に近寄ってこなかった…と言っていました。
私はシンボリルドルフを見に行ったときに、かじられたことがあります。もう当時はおじいちゃんだったはずなんですが、やんちゃな子でしたね。
話がちょっと逸れました。ボス馬の話ですけど、メスは例外のようで、負けても大丈夫(?)みたいです。レディーファーストなんですかね。不思議。
で、このときのジャパンカップはどうだったか?と言うと、牡馬であるアルカセットとハーツクライに敗れる3着になっちゃいました。負けちゃってます。びっしりではないですけど、アルカセットとはある程度競ってもいますね。
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/AcgDhTCAXv0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
ジャパンカップの次のラストラン有馬記念でゼンノロブロイは8着となり、初めて掲示板を外しました。これはアクシデントがあったそうですけど、ジャパンカップでボス馬としては言い訳しづらい負け方をして、ボス馬としてのプライドがずたずたになっちゃったのかもしれません。
■2022/05/11 第一次競馬ブームの立役者ハイセイコーもリーダー馬だった?
1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となったハイセイコーのWikipediaを読んでいました。
<1972年(昭和47年)7月、大井競馬場でデビュー。同年11月にかけて重賞の青雲賞優勝を含む6連勝を達成。翌1973年(昭和48年)1月に中央競馬へ移籍し、「地方競馬の怪物」として大きな話題を集めた[1]。
移籍後も連勝を続け、4月に中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞を勝つとその人気は競馬の枠を超え[2][3]、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになり[4]、競馬に興味のない人々にまで人気が浸透していった[5]。
5月27日に東京優駿(日本ダービー)で敗れたことで不敗神話は崩壊したが人気は衰えることはなく[6][7][8]、むしろ高まり[9][10][11][12]、第一次競馬ブームと呼ばれる競馬ブームの立役者となった[13]。
このブームは、後年1990年前後に起こった武豊とオグリキャップの活躍を中心にした第二次ブームと並んで、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされている[14]。ハイセイコーが巻き起こしたブームは日本の競馬がギャンブルからレジャーに転じ[15][16]、健全な娯楽として認知されるきっかけのひとつになったと評価されている[17]。1984年、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が評価され、顕彰馬に選出された[18][19]。
競走馬引退後に種牡馬となった後も人気は衰えず[12][20][21]、種牡馬として繋養された明和牧場には観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになり[22]、それまで馬産地を訪れることが少なかった競馬ファンと馬産地を結び付けた>
ハイセイコーは人気すぎて途中から過剰人気に。とはいえ、競走成績が良くなかったということではありません。皐月賞の他、宝塚記念、高松宮杯に勝利。中山記念、NHK杯(当時はややグレード落ち) 、スプリングS 、弥生賞も勝っています。
で、ここに追記したことでわかるように、ハイセイコーにはリーダー馬・ボス馬的なエピソードもあったのです。おもしろいですね。
<1970年(昭和45年)、北海道日高支庁新冠町の武田牧場に生まれる。馬体が大きく脚や蹄が逞しかったことから、牧場関係者は赤飯を炊いて誕生を祝った[25]。武田牧場場長の武田隆雄によると、生まれた時から馬体が大きく一際目立った馬で、他の馬と集団で走る際は常に先頭を切った[26]>
なお、地方でデビューしたハイセイコーですが、上記だけ読んでも期待されてなかったわけではなく、むしろ期待された馬だったことがわかります。以下のように他にも期待されたエピソードがある他、地方デビューは母馬絡みの特殊事情だった感じです。
<武田は当歳時から中央競馬にいっても十分通用するレベルの馬だと感じ[28]、夏になると、「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と周囲に喧伝するようになった[29][30]。また1957年の天皇賞(春)を優勝したキタノオー以来の「武田牧場の傑作」として期待を集めて新冠町の評判を呼び[31]、2歳時には「新冠の一番馬」という評判を得るようになった[28]。
ハイセイコーは中央競馬の調教師からも中央でのデビューの誘いを受けたが[31]、母ハイユウの馬主であった青野保が代表を務める(株)王優に所有され[3][31]、ハイユウを管理していた大井競馬場の調教師の伊藤正美によって管理されることになった[30]。1971年(昭和46年)9月に伊藤厩舎に入厩し、馴致が行われた後、調教が開始された。騎手として調教と馴致に携わった高橋三郎によると、ハイセイコーはこの時点ですでに、他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備えていた[32]。また、この時期にはすでにマスコミが盛んにハイセイコーについて取材をし、中央競馬の調教師から移籍が持ちかけられるようになっていたといわれている[32]>
<1973年1月12日、ハイセイコーはホースマンクラブに5000万円([注 5]この金額は、当時の東京優駿の優勝賞金(3600万円)を上回っていた)で売却された[42]。武田牧場場長の武田隆雄は、(株)王優がはじめからハイセイコーを中央競馬へ移籍させる意向であったようだと述べており[26]、江面弘也によると武田牧場側は売却に際し、大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けていた[3][40]。作家の赤木駿介によると、ホースマンクラブが新たな馬主となったのは、同クラブの代表者である玉島忠雄が大井競馬を訪れた際、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけであった[43]。大川慶次郎によると、当時の日本競馬界では「中央は中央、地方は地方」という風潮が強く、地方から中央への移籍は4歳の秋以降に行われるのが一般的で、4歳になったばかりの時点で行われるのは珍しいことであった[44]>