2024年2月1日木曜日

今の芦毛馬は全部、まだら模様のザテトラークの祖先?

■2021/07/19 変な意味の馬名 売春婦・キングサーモン・サーモントラウト
■2021/10/7 今の芦毛馬は全部、まだら模様のザテトラークの祖先?
■2022/2/8 浮気で戦争になり惨敗して告げ口…かっこ悪いザテトラーク


■2021/07/19 変な意味の馬名 売春婦・キングサーモン・サーモントラウト

 私は日本にデインヒルが合う!と信じていた時期があり、そのときにPOGで指名したのがエミナという○外の牝馬です。POG期間後を含めて3勝程度でそう強かった馬ではないのですが、思い入れのある馬でその長男のアンゲネームや長女のコリーヌも指名しました。
 エミナは名前も良かったですね。意味がわからずとも可愛らしい名前ですが、意味を知るとさらに良いです。アイヌ語で「笑う」という意味なんですよ。非常に良い名前の馬だと思いました。

 ところで、エミナの母はDelilah(デリラ)という名前でした。こちらは人名。ただ、あまり良い名前ではありません。というのも、デリラで一番有名なのは、『旧約聖書』に登場するペリシテ人の女性で、夫サムソンを裏切ってペリシテ人に売り渡した女性であるためです。
 ひょっとしたら他の女性由来かな?と思って、デリラの母Courtesaneの名前を調べてびっくり。最後のeがいらないのですが、Courtesanなら高級売春婦の意味らしいんですよ。なので、デリラはこの売春婦からの連想と思われます。海外の競走馬の名前ではたまにこういう「なんで?」というひどい意味の馬がいますね。謎です。

 さらにさかのぼってCourtesaneの祖母Kingsworthy。検索すると、英語のKings Worthyというページが出てきます。イングランドの地名ですね。この名前は彼女の父Kingstoneからの連想だと思われます。Kingstoneは人名か、王の石という意味か。eがないKingstonであれば、「王の町」を意味し、地名や人名の意味。ここらへんは変な名前ではありません。
 ところが、Kingstoneの父がちょっと変な名前。King Salmon(キングサーモン)という鮭の一種です。日本ではマスノスケとも呼ばれますね。「魚の名前だっていいじゃん!」という感じで、売春婦ほどネガティブではありませんが、珍名の部類だと思われます。
 このキングサーモンも父からの連想でしょう。こちらはなんとSalmon-Trout(サーモントラウト)、日本で言うニジマスです。ニジマス・サーモントラウトは食べるのですと大好きなんですが、馬名となるとやはり「う~ん」と思ってしまいます。
 ちなみにサーモントラウトは和製英語とされるため、ニジマスではない可能性も大。ただ、海外でもサーモントラウトという名前が使われているところを見ると、海外でも何らかのサケ・マス類を指す言葉なのかもしれません。troutもサケ・マスを意味する言葉なので、広くサケ・マス類って意味でしょうかね。

 サーモントラウトのさらに父なのですが、こちらはザテトラーク(The Tetrarch)という馬。彼は偉大な競走馬ですし、やっと名前もへんてこじゃありません。父ロアエロドがヘロデ大王を意味することから、その息子ヘロデ・アンティパスの称号「テトラーク(Tetrarch、四分封領主)」からとられた名前だそうです。
 ただし、ザテトラークは毛色が変わっていました。なんと芦毛の馬体に大きな黒い斑点模様のついた奇妙な毛色をしていたんですね。サーモントラウトについては情報がなくて不明ですが、ひょっとしたら斑点を父ザテトラークから受け継いでおり、斑点を持つ魚からの連想でサーモントラウトと名付けられたのかもしれません。


■2021/10/7 今の芦毛馬は全部、まだら模様のザテトラークの祖先?

 前回、出てきたザテトラーク。あだ名がその名も「Spotted Wonder」(驚異のまだら)であることがわかるように、奇妙なまだら模様という毛色が変てこな馬な一方で、競走馬としても種牡馬として大成功した名馬です。Wikipediaを見ていると、おもしろいエピソードが多数あります。

<ザテトラークは芦毛の馬体に大きな黒い斑点模様のついた奇妙な毛色をしており、馬体も貧弱だったためみすぼらしい馬と嘲笑を浴びることもあった。この奇妙な毛色は7代父のパンタルーンや母の祖父であるベンドアにも現れており何らかの遺伝子が作用したと考えられている。ザテトラークの代表産駒の一頭であるムムタズマハルにもこの特徴は受け継がれ、現在でもまれに発現することで知られている。
 また、この時代には稀少であった芦毛を持ち、父ロアエロドとともに芦毛中興の祖となった。現在の芦毛馬の多くがこの父子を元にしている>

 ザテトラークは7戦7勝だったのですが、内容がトンデモエピソードだらけの7戦7勝です。昔の話なので誇張も混じっていそうですが、力を出さずに圧勝したり、トラブルがあっても勝ってしまったり、考えられないほどの大差で勝ったりととにかく強かったといいます。

<1913年4月17日、ザテトラークはニューマーケット競馬場で行われた芝1000メートルのレースでデビューした。人気は3番人気であったがスタート直後から他馬を引き離し、そのまま先頭でゴールした。このときザテトラークが全力疾走したのは最初の1ハロンだけであったといわれている。6月に入り、ザテトラークはウッドコートステークス(芝1200メートル)、コヴェントリーステークス(芝1200メートル)を連勝した。コヴェントリーステークスにおける2着馬との着差は公式記録では10馬身だが、実際には50馬身で、ほかの競走馬の馬主の名誉のために主催者側が配慮したとも伝えられている。
 4戦目のナショナルブリーダーズステークス(芝1000メートル)ではスタートで大きく出遅れ(スタート後その場に膠着したため。伝承では約200メートルの遅れをとったとされている)、カランドリアをクビ差交わして優勝した。このレースがザテトラークの競走生活における唯一の辛勝である。騎乗していたスティーヴ・ドノヒューによるとザテトラークには気に入らないことがあるとその場に留まって動かなくなる癖があり、その癖が原因で膠着した。
 5戦目のラウスメモリアルステークス(芝1200メートル)ではパドックから本馬場への移動中に膠着を起こし、レースのスタートを1時間遅らせるアクシデントを引き起こしたがレースでは問題を見せず、翌年のエプソムオークス優勝馬プリンセスドリーに6馬身の差をつけて優勝、9月に入り6戦目のチャンピオンブリーダーズフォールステークス(芝1000メートル)と7戦目のシャンペンステークス(芝1200メートル)もそれぞれ4馬身、3馬身の差をつけて勝った>

 前述の通り、種牡馬としても成功。ただ、これまたトンデモエピソードがあります。1919年にはイギリスのリーディングサイアーとなるなどしたものの、種牡馬なのに種付けが嫌いという致命的なデメリットがあり、種付けをやめるために全力で頑張っていたそうです。なんとかして学校を休む方法を考える子供みたいな感じです。
 この困った特徴のために成功は続かず。逆に言うと、少ない種付け頭数で成功したわけで、レースエピソード同様に本気を出さずとも優秀な成績を残しました。

<種付けには時間を要し、途中でやめてしまうこともしばしばあった。交配中にわざと尾の付け根を痙攣させて射精したかのように見せかけるなど、種付けをやめるための手段は手が込んでいた[3]。ザテトラークの産駒数は1922年生まれが12頭、1923年生まれが10頭、1924年生まれが4頭と減少を続け、1927年以降はまったく誕生しなくなった。ザテトラークが生涯に生み出した産駒は130頭であった。それでも産駒は合計257勝をあげ、前述のように1919年にはイギリスリーディングサイアーを獲得している>
<ザテトラークの代表産駒は2000ギニー勝ち馬テトラテマ、快速牝馬ムムタズマハルである。ほかにセントレジャーステークス勝ち馬を3頭輩出した。直系子孫は先細りで現在はほとんど残っていない。ザテトラークの資質をもっともよく受け継いだのはムムタズマハルとされており、その子孫にはナスルーラ、マームード、シャーガー、オーソーシャープなど数多くの名馬がいる。日本へは戦前にテトラテマの産駒セフトが輸入され、トキノミノル、ボストニアンなど多くの活躍馬を出し成功した>


■2022/2/8 浮気で戦争になり惨敗して告げ口…かっこ悪いザテトラーク

 以前書いたように、ザテトラーク(The Tetrarch)はその父ロアエロドがヘロデ大王を意味することから、その息子ヘロデ・アンティパスの称号「テトラーク(Tetrarch、四分封領主)」からとられた名前だとのこと。競馬の話からは離れちゃうのですが、今回はこのヘロデ大王の息子であるヘロデ・アンティパスについてのWikipediaを読んでみよう…という話です。
 この前、「ザテトラークという名前はへんてこじゃありません」といったことを書いたのですが、競争馬の名前にしたくなるような活躍をしているわけでもないんですよね。むしろダメダメな君主でした。やはりちょっとへんてこな名前かもしれません。

 ヘロデ・アンティパスは、母親の身分的にも年齢的にも王位継承順序は高いわけでもありませんでした。ただ、ヘロデ大王の弟であるフェロラス死亡から間もない頃(西暦紀元前5年ごろ)にこの時点で存命の異母・同母双方の兄たちが全員父から嫌われたことで一度は王位継承者に指名されたこともあるそうです。
 ところが、ヘロデ大王は死亡直前考えをまた改めて王位継承者をアルケラオスに変え、アンティパスをガリラヤとペレヤの領主に指名しました。

 これでアンティパスは不服を持ちました。また、王位継承者に指名されたアルケラオスを嫌っている親族達はローマ皇帝に訴え出て、ヘロデ大王が晩年病気で正確な判断ができなくなっていた可能性があること、仮にヘロデの遺志がアルケラオスを本当に指名していても、アルケラオスは残忍さや身勝手な点で王にふさわしくない人間だと主張したそうです。
 この揉めている間に、ヘロデ大王の領地では各地で暴動が発生。シリア総督の許可を得て皇帝に使者を送り、ローマ帝国の直轄地域としてシリア属州に組み込まれたいと要求する地域も出てきました。

 これらを踏まえたローマ皇帝は最終的にヘロデの最後の遺言を原則としつつも、アルケラオスを王としては認めず「エスナルケス(民族の統治者)」として認定しました。
 一方、ザテトラークの由来となったアンティパスの方も、ガリラヤとペライヤのテトラルキア(四分領太守)に認定され、年間200タラントンの収入が得られることになります。ゴネたことで得したのかもしれません。

 アンティパスの功績としては、いくつか新しい町を建設したこと。セップォリスの町を要塞化してアゥクラトリス)、ベタラムフタの城壁も整備してユリアと命名したが、さらに壮大だったのはティベリウスの時代にゲネサレト湖(現在のガリラヤ湖)のほとりの温泉が湧く地域に新しく都市を作り、そこに当時の皇帝の名をつけてティベリアスと名付けてそこを都として住んだそうです。ただ、ここは以下のような問題があったといいます。

<工事中にここが古代の埋葬地であったことが判明して敬虔なユダヤ人からは嫌われ、結果、ティベリアスに異民族やユダヤ人でも冒険家や乞食といった人々を無理にでも駆り集めてそこに植民させたことでかなり住民が混合した町になり(ヨセフス曰く「無統制な集団」で「ガリラヤ人や行政官、家付き土地付きの移住を条件に開放させられる奴隷。」などがいたという>

 彼自身の領主としての評価は父ほど野心的ではないとみられており、ヨセフスからは「平穏を愛する(静かな生活に満足している)」とされています。
 ただ、ローマ従属国のナバテア王国と友好を結ぶためアレタス4世の娘ファサエリスを最初に妃に迎えていたのに、異母兄の娘(つまり、姪)ヘロディアに熱を上げるという失態を犯していました。これにより、最初の妃であったアレタスの娘に実家に逃げられ、後日これに激怒したアレタスと戦争になって惨敗します。
 惨敗したアンティパスは、従属国の君主は独断で戦争をしかけてはいけないというルールがあったため、ローマ帝国に訴え出ます。ルール通りなのですが、惨敗した後なので、告げ口しているようでかっこ悪いですね。
 とりあえず、これにより、皇帝のティベリウスは戦争を仕掛けたアレタスを生死を問わず捕らえるようにシリア総督に命じます。結果、これ以上アレタスは介入できなくなったのですが、捕らえられることもなかった模様。この後間もなく(戦争から約6か月後)ティベリウスが死亡したことでアレタスへの処罰は行われないまま終わっているそうです。

 また、アンティパスの所業で有名なものの一つに、人々に評判の良かった洗礼者ヨハネを処刑したことがあるそうな。「当時タブーだった他の兄弟の妻であったヘロディアを妻にしてしまった事をヨハネに非難された」と「ヨハネの評判が良すぎて彼が人々を扇動するのを危惧した」などの説があるといいます。
 当時の一般大衆は宗教的希望と政治的希望を区別していなかったので、どちらの場合でも政治的混乱につながる危険があったとされているものの、ちょっと勝手なところを感じてしまいます。
 なお、兄弟の妻との結婚はタブーですが、当時のユダヤ地方ではおじと姪の結婚自体はタブーではなかったとのこと。ヘロデ大王の妹でヘロディアの祖母であるサロメも叔父のヨセフス(フラウィウス・ヨセフスとは同名の別人)と結婚しているという例もあるそうです。

 ここで出来てたヨハネ処刑の原因となったという説があり、なおかつ前述の惨敗した戦争の原因ともなった最愛の妻ヘロディアですが、最終的に彼女がヘロデ・アンティパスに破滅をもたらした…とされてました。以下のような説明です。

<ローマの皇帝がティベリウスからカリグラに変わった際、ヘロディアの兄弟であるアグリッパは以前からカリグラと仲が良かったためフィリッポスの領地を手に入れた他「王」の称号も手に入れた。
 アグリッパはかつて生活が困っていた際にアンティパスに仕事を都合してもらったが、喧嘩でその座を解任されたような過去もあったため、これを妬んだヘロディアに言われて最初は乗り気ではなかったアンティパスも王の称号をもらえるように夫婦で嘆願に行ったところ、先手を打っていたアグリッパの使いがアンティパスの非難目録を持ってきて彼の非行や周囲の国々との衝突を上げ、彼がローマの掟に背いている証拠に大量の武器を貯蔵していることを上げた。
 カリグラはこれを聞いた後アンティパスに大量の武器の備蓄の件について尋ね、これを否定できなかったことで他の件も非難目録は信用できるとして彼の領地を没収し、追放の刑にした(引用者注:アンティパスの領地はアグリッパが相続した)>
 
 余計なことをしてしまったへロディアですが、純愛派で憎めないところもあります。へロディアはアグリッパの姉妹であるためある程度の情けはかけられ、本来は追放処分ではなかったとのこと。ただ、へロディアは夫についていくことを望んだため一緒に流刑地に行っています。
 その後については諸説あり、アンティパスは「へロディアと一緒に流刑地で死んだ」というのがひとつの説。これは実を言うとマシな方の説で、救いようがない「カリグラに殺害された」という説も伝えられているそうです。